大桃物語

ぼくたちの父ちゃんは大工さん
大桃の棟梁って言うんだ
かっこいいんだよ

 

ぼくたちの家には、お弟子さんがたくさんいた。 
お風呂はお弟子さんが先に入る。
ご飯はお弟子さんが先に食べる。
その後に、ぼくたち。
おかずはほとんど残っていない。
「仕事をしている人が一番だよ。」って父さんの背中に書いてあった。

大工さんはえらいんだ。
ぼくたちも早くえらくなりたいなぁ。

 

この木はどうすれば下がらないか、どんな風に狂うのか。
木の「め」をみて判断しなくちゃいけない。

木は逆に使ってはいけない。
木を逆に使わなければ、いい大工。
それぐらい木を「みる」ことは難しいってこと。

 

千鳥勾配はどうやって出すんだ?
寝たきりになっても、的確に、瞬時に、ズバリ現場を語る
親父はすごい職人だった。

そんな親父の口癖は
「自分の家だと思ってやれ!」
そんな親父の信念は
「忙しい時ほど手抜きのない様、気をつけろ。
そうすれば、暇な時にも必ず仕事はくる。」

 

気づいたら、みんな大工になっていたね。
気づいたら、腕の良い若い大工が育っているね。
つける所はぴたっとつける
木と木をつなぐ仕口、機械は真似できない
それが、日本建築
それが、大工の仕事
それが、大桃の棟梁

 

「お前の親父は良かったな。」
大桃の4代目は、独立した弟子たちから今でも思い出してもらえる棟梁でした。

「釘を撒いても、芽は出ないぞ。」
落ちている釘をカンナの上に静かに置いて、何も言わない、怒らない。

仕事は厳しかったけれどやさしさがあって、面倒見が良かった4代目。
会津田島の大工はみんな大桃の卒業生です。

そして。
私たち兄弟も何故かみんな大工になっていました。
お腹いっぱいおかずを食べたかったからでしょうか。(笑)

お客さんは大工をみて「かっこいい」と言ってくれます。
不思議な顔をして「どうしてこんなことができるの?」と。
でもそれが大工の普通。大桃の普通。

今も神社だって、お寺だって何でもやれる。
そして、親のことを悪く言ったことなど1度もない、元気な兄弟たち。

それがちょっぴり自慢かな、と思う今日この頃です。

 

卒業文集に、「大工になりたい」と書いていました。
だから工業高校を選びました。

設計もして、公共工事もするようになり
大桃は、大工7、8名の組織から、だんだん会社組織になっていきました。

そして私は6代目経営者として、大工ではなく、大学卒業後、
その頃世界一といわれたスーパーゼネコンに就職することを選びました。
仕事は巨大ビル建設の現場監督。
大桃と置き換えられることはほとんどありませんでしたが
そこで私は「人使い」を経験しました。

人の使い方。
それは職人とどう向き合えばいいか、ということ。
それは大工ではない私が、必ず突き当たる大きな大きな課題。

わからないことは素直にきく。悪いことは謝る。それがすべて。
これを欠かせばすべてだめになる。
4年かけて確信したのは、このただ1つ。

 

10年、設計に携わりました。
現場に出て、仕口を勉強しました。
現場を無視した設計は、
大工が"やりづらい"から。

例えば、豪雪地帯において、
雪の処理を考えない設計。
それは、
ただただ住む人を苦しめる設計であり、
大桃の大工が最も嫌う設計です。

大桃の大工が"やりづらい"設計は、
家にとって悪いか、
人間にとって悪いかのどちらか。

そんなことが堂々と言える私、
大桃6代目の使命は
次の代に“桃バトン”を渡すこと。

これからも大工と共に、
大桃物語を1ページ1ページ、
書き進めてゆきます。